ごあいさつGREETING

医療法人社団KDS 理事長 小林 伸   Shin Kobayashi  D.D.S.,Ph.D. 医療法人社団KDS 
理事長 小林 伸
Shin Kobayashi D.D.S.,Ph.D.

ごあいさつ

当歯科室は、平成13年にこの地に開業しました。
目まぐるしく発展していくこの大崎で、患者さん、地域のみなさん、スタッフ等、多くの方々の支えで今日、診療をさせていただいております。

医療人たるもの、お困りの方がいらっしゃったら、いつなんどきでも、可能な限り手を差し伸べて、助けてあげたい。
この気持ちを軸に、スタッフ一同、診療にあたっております。
どのような状況でも、急患来院を受け入れることができる態勢を敷いております。

また、昨今、日進月歩の医療技術発展に遅れることなく、いかなる症例ケースでも対応できるように、常に自己研鑽を怠りません。

理論なき実践は暴力であり、実践なき理論は空虚である

歯科治療における、充分な知識とそれを裏付ける臨床経験が、当歯科室にはあります。

当歯科室に来院していただいた患者さんに、 安心、安全な治療を行い、
一人一人との信頼関係を大事に、大切に、

皆様の健康維持に貢献できるよう日々精進してまいりますので、どうぞお気軽にお申し付けください。


理事長 小林 伸をより知って頂くために

幼少期

私は、東京都葛飾区柴又で小林家の次男として生まれ、育ちました。
映画「男はつらいよ」で有名な帝釈天の近くです。
地元は映画のイメージ通り生粋の下町で人情に厚く、とても優しい雰囲気です。
当時は自然も多く、江戸川も近かったので、環境と人に恵まれ、のびのびと育ちました。
一つ上に兄がいて、よく一緒に遊びました。いつも兄の後を追いかけていたそうです。

特技や賞受賞など、これといって特別何かに秀でた事はなく、なんの変哲もない、内気な性格ですが、打ち解けるとお調子者だったそうです。
集中力がとてもあり、読書やプラモデルなど何かに集中してとりかかっている時は声を掛けても全く反応しなかったそうです。それでよく叱られましたが、同時に褒められたことを覚えています。
手先は器用な方で、壊れた電化製品を分解してみたり、故障したファミコンを修理したりしていたので、友達から修理を依頼されることもありました。

幼稚園までは地元に通い、小学校からは千代田区の学校へ片道一時間かけて電車通学しました。
朝の満員電車の中大人に混じり、兄と一緒に踏ん張りながら四ツ谷まで毎日通学です。
当時はとてもつらく、小学校とはこうでもしないと通えないものなのかと思っていました。
今思い返すとこの経験が子供なりにある程度の忍耐強さを身に着けさせたのかなとも思い、またこの学校を選んで行かせてもらったことにとても感謝しています。

中学校はそのまま麹町にある公立中学校へ行きました。
ここで一生涯の親友ができました。たまたま通学路が一緒というだけで毎日一時間の帰宅で仲良くなれたのだと思います。みんな千代田線を使って帰っていたので、「千代田ファイブ」なんで名をつけてグループで行動していました。でも、高校受験を控え、内申点に怯える三年間でした。

高校は地元の都立高校へ行きました。学区内の高校なので、通勤が楽で驚きました。
部活は弓道を3年間続けました。有段者にもなれました。
この経験で、物事には型があり、その型を最初にしっかり身に着けないと上手くいかないことと、精神統一や練習の大切さを学ぶ事が出来ました。
今になって、守破離の大切さがわかってきたような気もします。

父との思い出

私の父、祐一は、とても厳格で、口数は少ない方でした。
歯科大学がまだ4年制だった最後の代で、足立の東和というところで歯科医院をしていました。
医学博士号を取得しており、近隣の学校の校医を長年務めたり、地域の医療活動に積極的に参加、貢献していたみたいで、家の応接間に表彰状が沢山飾られています。
私が生まれたのが、父が50歳前後の時です。きっと戦時中、戦後直後を生きてきたので、父はとても厳しくしつけられて育ったのだと思います。
他の家庭と比べてとにかく厳しかったです。授業後の校庭開放は一度も出させてもらえず即直帰は基本で、平日授業後は友達と遊ぶ事は禁止でした。
高校時代は男子なのに門限があり、「シンデレラボーイ」と友達から皮肉を言われたこともあります。
お小遣いもほとんどもらえませんでした。
物を大事にしなさいと、余計なものは買ってくれませんでした。
父が何を考えているのかわからなかったので、恐怖心を抱いていましたし、ずっと自分は父から嫌われているんだと思い込んでいました。
反抗して喧嘩したこともよくありました。
ですがそんな父に時々「伸は俺に似ている」と褒められることがあり、その時はとても嬉しかったです。
最近になって、母親から、私が生まれたとき父が仕事場で馴染みの患者さんに、「伸は貴重品だから」と自慢に話していた、と訊き、救われた気がしました。
そして今自分が父親になって、父が考えていたことが少しずつですがわかるようになり、とても感謝しています。

大学生時代

大学は歯科大学へ進学することになります。
他にも工学部や理工学部を受験しており合格していたのですが、歯科医師だった父の背中を見て育ってきたこともあり、この道を目指すことは私にとって、自然なことでした。
父は家では仕事の話はほとんどしなかったのですが、普段の言動から仕事に対する真摯な姿勢は、子供なりに感じていました。
歯科医師という職業は、とても誇らしいものなのだとインプットされ、歯科医師を目指したいという気持ちは確固たるものになっていました。

ですが、父は私が歯科医師になり、後を継ぐことにあまり賛成ではなかった様でした。
(兄はこのとき歯学部でない大学に行っていたため、私が後を継ぐ予定でした。)
これからの歯科業界を考えてのことだったのでしょう、
親が歯科医師だから自分もなれればいいやと、中途半端な気持ちでなるものではない、普段仕事の話をほとんどしたがらない父から、アドバイスされたのにとても驚いたのを覚えています。

そんな父の気持ちもよそに、20歳前の若造である自分は夢いっぱいのキャンパスライフに胸を膨らませ、大学生活が始まります。

座学や実習など、赤点にならない程度に要領良くこなし、高校から始めたギターに夢中になりバンド活動に入れ込んでいました。
その他、地方ホテルの住み込みバイトや、コンビニ、倉庫整理、サンドイッチマン、テレアポ、定食屋、カフェ、家庭教師などのアルバイトを色々経験しました。
勉強一筋という大学生活では決してなかったですが、こういった経験は今の仕事のサービスマインドにつながっていると思います。
こういう気ままな生活ができたのも、何不自由なく生活を送らせてもらえた家族のおかげと痛感しています。

転機

大学五年の病院実習の時、父の診療所がとなりの工事で使用したバーナーの火が燃え移り、火事になり、閉業をやむなくされました。
そんな一大事の時も父は冷静に対処しており本当恐れ入りますが、自分の城が焼かれていく光景を見ている父のなんとも言えない表情を私は今でも忘れません。
きっと心配して見ている兄と私がいる手前気丈に振る舞っていたのかもしれません。
その半月後、火事の事で心労が祟ったのか、病気に倒れ、入院しました。
一時退院で家に帰ってきているときに、火事で治療が中断された患者さんを応接間で診ていたこともありました。
治療の甲斐もなく、診療所火事から約半年後、父は亡くなりました。
父のそばで、小林歯科医院再興を心に強く決意し、今後はどんなことがあっても、兄弟二人で乗り越えていこうと約束しました。

この時ほど自分が無力だと感じたことはありませんでした。
まだ学生でしたので無理な話ですが、もし、自分が今歯科医師になっていたら、火事で焼かれた診療所を早急に改装して、引き続き患者さんの治療を行う事ができるのに、と何度も悔しい思いをしました。
と同時に、頼りにしていたお手本となる存在が居なくなり、途方に暮れたこともありました。
早く働けるようになりたい。臨床の技術を身に着けたいと思いました。
その後必死になって勉強し、国家試験の前の全国模試でも3000人中50番前後の成績がとれるくらいになり、無事卒業試験、国家試験を合格しました。

勤務医時代

卒業後は大学附属病院で研修医として勤めました。
歯科医師研修医制度が義務化された初年度でした。
ありがたいことにこちらで研修医優秀賞を頂き、修了式に表彰されました。
大学の各学科の講座の先生方にお誘いの話を沢山頂いたのですが、早期開業を見据えて出来る限り豊富な臨床経験を積んでおくことが必要と判断し、3つの歯科医院で、非常勤歯科医師として働きました。
各歯科医院とも多くの患者さんが来院され、忙しかったです。

この経験のお陰で、多様な治療方法を習得でき、様々な経験や素敵な出会いも沢山ありました。
一つの医療法人では、院長として歯科医院の新規開業を経験させて頂きました。
そこで歯科医院のマネージメントやマーケティングの初歩を学んだと思います。

オーバルコート歯科室へ

その後、医療法人社団良真会の理事長からお声掛けいただき、このオーバルコート歯科室の院長に赴任しました。
父の歯科医院の再興は、兄が「足立インプラントセンター小林歯科医院」として同じ場所で開業してくれました。開業には私も診療の合間で開業の手伝いをしました。
小林歯科医院で仕事をしていると、以前の父の患者さんがたくさん戻ってきてくれて、私たちが知らない仕事場での父の話をよくしてくれます。
話をよく聞き、気持ちに寄り添い、患者さんを家族のように接する。患者想いの父だったのだと教えてもらいました。
やはり歯科医師である父は、閉院して10年経っても、患者さんを集めてしまう……技術もさることながら、その人柄に感動しました。
父は尊敬すべき私の目標です。そんな父と同じ歯科医師になれたことを誇りに思います。

オーバルコート歯科室である程度勤務をしたら兄と一緒に実家の診療所で働く約束で、帰ってきてほしいと兄からも言われていたのですが、今まで診させていただいた患者さんのことが気がかりでした。
ドクターの都合で担当医が変わってしまうのは、不安になるだろうと思ったからです。
また、行ってきた治療の長期経過を追えないこと、フォローできないことにも責任を感じ、残念に思っていたところを、前理事長から譲渡のお話をいただき、ここでずっとやらせていただくことを決意しました。
今後も、地域のかかりつけとして責任を持って診療にあたっていきます。

経営理念

現在世界最大の罹患率と言われている病気は歯周病です。
歯周病は生活習慣が原因で発病、悪化することが殆どなので、治療するのが非常に難しい病気です。ですが、この病気を治療できるようにならないと地域のかかりつけとしての予防は達成できないと考え、診療を行いつつ勉強や研鑽を積み、歯周病認定医を取得しました。

予防を続けていくことでお口の中に自信が持て、健康に過ごす事が出来、きっと笑顔が増えます。
歯科は笑顔に直結している科と私は思います。
笑顔は笑顔を増やします
笑顔が増えれば、周りを幸せにし、生活の質や生産活動が上がり、延いては社会貢献につながると思っています。

「歯科からはじまる笑顔創造」

2016年に医療法人社団KDSを立ち上げました。
当法人の経営理念です。

兄が実家で立ち上げた医療法人社団祐一会と連携をとって、父の意志を汲んだ、患者想いの良質な診療を継いでいきたいと思っています。

数多くある歯科医院の中で、当歯科室を選んできていただいている患者さんに、還元していけるよう、スタッフ一同励みますので、宜しくお願いします。


略歴

日本歯科大学 歯学部卒業

日本歯科大学附属病院にて研修修了

医療法人社団良真会オーバルコート歯科室院長就任

2015年、当歯科室を良真会より独立

2016年3月、医療法人社団KDS設立、理事長就任


資格

ITI(International Team for Implantology)メンバー

日本臨床歯周病学会 歯周病認定医

日本顎咬合学会 咬み合わせ認定医

日本口腔インプラント学会会員

日本歯周病学会会員

JIADS(The Japan Institute for Advanced Dental Studies)CLUB会員

Er:YAGレーザー臨床研究会会員


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